「鬼滅の刃」の鬼に関する考察


 

先日、めっちゃひっさーしぶりにアニメを見た。 

 

最近巷で噂の鬼滅の刃がネットで観れたので、観たのだけど、 

おれには珍しく一気に26エピソードを2日で観れた。

 

それだけ内容が惹きつけるものだったのは間違いなかったし 

面白く拝見させていただきました。 

 

ここでちょっと鬼に関しての考察をシェアしたいなーと思います。 

 

鬼は体を切られても再生する半永久的に生きながらえる命を持っているのだけど 

不老不死や永遠の命を求める意識はやはり恐れなんだろうなって思う。 

 

死への恐れや老いることの恐れ、そして生きる執着。 

 

執着もまた恐れから生じる意識なんだと思う。 

 

それは失う事の恐れや渇望、欠乏感、孤独感、からの恐れを裏付けているから。 

 

過度な執着は依存をもたらし、その対象物なくしては 

生きていけない、なくてはならないという幻想を生み出す。 

 

否定する死は恐れの意識が根底にある。 

 

死を苦しみや病や喪失や悲しみというネガティブな側面で捉えるからだろうか。 

 

死が受け入れがたいものになってしまうのは生への執着と喪失の恐れに 

由来してるんだろうなって思う。 

 

それもいいとかわるいとかって事ではないんだけど。 

だって恐れもこの次元に備わる愛のコインの裏返しなのだから。 

 

この地球の四季のサイクルに沿って何度も転生する木をイメージすればいい。 

 

春に新緑が芽生え花が咲き、夏は活気を帯びいて緑濃くなり、 

秋は枯葉が美しく落ち葉になり、冬は次のサイクルを迎えるための 

休息を表すように、人の生命は木々の一年のサイクルと同じような 

ものなんだと思う。 

 

例えば木がそのサイクルを終わりたくないからって、葉っぱをずっと 

緑色のままに保つことがどれだけ自然の摂理から外れた滑稽なことだろう。 

 

何度もなんども転生し同じようなサイクルを繰り返す、けど全く同じではない 

生命の生と死のサイクル。 

 

生命はサイクルがあるから美しいし、サイクルそのものが生命(ライフ)

なんだと思う。

 

だから死もその美しいライフプロセスの一つであって切り離せないもの。

 

 

人は近代においてテクノロジーや情報が進化し便利になったり心地よくなったり 

物質的に豊かになってきたのだろうけど、、、これはあくまでも表面的な光だけど 

闇の意識に関してどれだけ変化したんだろう。。。 

 

競争意識、優越感劣等感、差別、不十分感、妬み嫉み、我欲、欠乏感、、、 

そういった内面の部分において持っている闇の側面はどれだけ変わったのだろう? 

 

それらを抜けて一人一人の心の平和はどれだけもたらされてるんだろうか?

 

それらの闇が戦争や飢えや貧困や差別という外側の現実を作っているのだと思う。 

 

鬼はそういった人の闇が作り出した産物を象徴としているんじゃないかな。

 

鬼のリーダーの鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)の生み出した幻想の産物。 

 

永遠の命は人を幸せにするものではなく、死を受け入れられずに恐れからの 

逃避を永遠に続けるだけの悲しくも孤独な世界なんだろうなと思う。 

 

きっと主人公のかまど炭治郎にはその闇を哀れに思う慈悲があるのだろうな。 

 

その大きな愛がこのストーリーが単なる勧善懲悪にとどまらない 

人々を魅了するものなのかもしれない。 

 

そんな鬼滅の刃の闇の側面に光を当ててみた 

シャドーワーカーおさむの考察でした。

 

 

読んでくれてありがとう✨

 

 

 

今日のギター音源は

Oblivion    忘却

 

 

 

 

 

昨日は髪を切りに久々に街まで行った時の日が沈んだ後のトワイライト。

年末だしこの年のいろんなものをそぎ落としたような気持ちで、身軽になったなー。

 

 

 

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